生活に必要な少しのお金があれば十分である。余分に有っても使いあぐねてしまう。其ればかりか、過ぎたるは及ばざるが如し、お金によって人間関係ひいては人生が狂わされてしまうことさえある。であれば、お金持ちはどうすれば良いだろう。寄付をしてみたり、施しを与えてみるのが正しいだろうか。否、其れはいけない。人は直ぐに甘えてしまう存在だから。どんなに辛い状況でも生き抜く強さを持ちながら、楽を覚えてしまうと、途端に頑張る事が出来なくなる。誰かを駄目にすること、特に怠惰を助長することは大罪です。
怠惰とは無縁、どれほどの努力をしようとも抜け出すことの出来ない辛い境遇はあることでしょう。その人たちを救いたいと考えることは罪ではありません。ですが、あなたにとっては、ほんの気まぐれでも、救いを与えられたものには其れが生命線となる。あなたからの救いが滞れば彼らの命はない。最初から余計な干渉をしなければあなたに罪を問うことは出来ません。しかし一度は救いの手を差し伸べながらその手を引っ込めるのは、あなたが殺したことに相違ありません。自らの行為に責任を持ち続けられないこと。特にその行為に責任が伴うことを理解しないのは大罪です。
責任を全う、特定の誰かだけであれば救うことも出来ましょう。その者はさぞやあなたに感謝することだろう。あなたはその感謝を甘んじて受け入れればいい。だがあなたが救いを与える者、そうでない者、選定はどのように行われるのだろうか。怠惰とは無縁でありながらも生活に困窮する者は数え切れない。その中からあなたが彼を選び出したのは何故でしょう。最も生活に困窮していたから? 最も改善への努力を欠かさなかったから? それらはあなたの主観にすぎません。偶々目に付いたのが彼だったから? あなたの知らないところには、もっと飢え渇き苦しんでいる者がいるかも知れません。後であれば盲目が罪。前であれば選定を行ったことが罪となりましょう。特に前はいけませんん。選定を行うことは、選び出したものを生かし、選ばなかったものを殺すことに相違ない。あなたは救いを与えたものからの感謝と共に、見殺しにした罪を受け入れなければならない。あなたにその罪を受け入れる覚悟がありますか。
このままではお金持ちはきっと罪人になってしまう。では、どうするか。個人ではなく社会そのものを変えて下さい。日々の糧に苦労するようなものを生まぬ社会に。
そこで考えつくのが社会主義である。皆が平等に暮らせよう。しかし、過去を見るに失敗の事例が多すぎる。特に支那国は酷いものだ。怠け者で溢れ返ってしまった。怠惰を問題にした私が社会主義を提唱するだけでは不足だろう。だが、中々に難しい。私独りでは光明など見出せよう筈もない。皆の意見も聞きたいのだが、何か良い解決策はないものだろうか?
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